パリ郊外の粗末な小屋に、揮発性の蒸気が立ち込めている。1898年から1902年にかけて、マリー・キュリーは毎日そこへ通った。目的はただひとつ、ピッチブレンドと呼ばれる鉱石の中に潜む未知の元素を取り出すことだった。
彼女が扱った鉱石の量は、最終的に数トンにのぼった。それを煮沸し、溶かし、蒸発させ、結晶化させる。手作業の繰り返し。たった0.1グラムのラジウムを単離するために、彼女は何千回という工程を踏んだ。雨が降れば小屋は水浸しになった。冬は指がかじかんで動かなかった。
問題はそれだけではなかった。放射線が人体に何をするか、当時の科学はまだ知らなかった。マリー自身も知らなかった。彼女の指先は慢性的にただれ、皮がめくれていた。研究ノートには今なお放射線が染み込んでおり、現代の研究者が閲覧する際には防護服が必要とされるほどだ。彼女はその危険に気づかぬまま、あるいは気づきながらも気にせず、実験を続けた。
夫ピエールでさえ、途中で別の研究に目を向けることがあった。だがマリーは違った。なぜあの鉱石はウランの含有量から計算されるより強い放射線を出すのか。その一点が頭から離れなかった。それは科学的な好奇心というより、ほとんど強迫に近い何かだった。
1906年、ピエールが馬車事故で突然この世を去った。周囲は彼女が研究を続けられるとは思わなかった。だがマリーは夫の後継者としてソルボンヌ大学の教授職に就き、研究を再開した。悲しみを押し込めるように、あるいは悲しみそのものを燃料にするように。
1911年、彼女は化学分野でふたつ目のノーベル賞を受賞した。物理学に続く二冠。同じ人間が異なる分野で二度受賞した例は、史上ほかにない。
のちに彼女は再生不良性貧血で亡くなった。長年の放射線被曝が原因とみられている。彼女の執念は、文字どおり自分の体を削って成り立っていた。それを悲劇と呼ぶのは簡単だ。だが彼女自身は、一度も手を止めなかった。
ひとつのことに狂気に近いほど集中することは、消耗であると同時に、ある種の人間にとっては唯一の生き方でもある。
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