「修行」とは呼ばず、「物語を書くための体力をつくる製造工程」
1978年4月、神宮球場。村上春樹は外野席でビールを飲みながら野球を観ていた。打席に立ったのはヤクルトの外国人選手。バットがボールを捉えた瞬間、澄んだ金属音が春の空気を切り裂いた。そのとき、何の前触れもなく、一つの考えが降ってきた。「そうだ、小説が書けるかもしれない」。後に本人が語っているその瞬間の描写には、論理も伏線もない。ただ、確信だけがあった。
問題は、彼がその時点で小説の書き方をまったく知らなかったことだ。文学を専攻してもいなかった。当時の日本文壇がどんな作品を求めているかも、どんな文体が評価されるかも、何も知らなかった。それでも彼は、深夜に閉店したジャズバーのカウンターで、ノートに向かい書き始めた。昼間はバーを経営し、夜中に書く。それが唯一の選択肢だった。
最初の作品『風の歌を聴け』は、既存の日本語の文体では書けなかった。行き詰まった彼がとった方法が異様だった。まず英語で書き、それを日本語に翻訳し直すという手法だ。英語の語彙と構文の制約の中で書くことで、余計な修辞を削ぎ落とし、自分だけの日本語リズムを発見しようとした。狂気と紙一重の回り道だが、それ以外に突破口が見えなかった。
その後、作家として本格的に生きていくと決めた村上は、バーを売り払い、全く異なる生活規律を自分に課した。毎朝4時か5時に起きて、5〜6時間ぶっ通しで書く。午後は走るか泳ぐ。夜9時には就寝する。友人との夜の付き合いは断り、パーティーにも出ない。この生活を何十年も変えていない。本人はこれを「修行」とは呼ばず、「物語を書くための体力をつくる製造工程」と淡々と説明している。
感性の爆発で書くのではなく、身体を機械のように調律し、毎日同じ時間に同じ場所で書き続ける。それが村上のこだわりの本質だ。才能を信じるのではなく、習慣を信じる。霊感を待つのではなく、体力で書く。その執念は、ある種の強迫観念に近い。
何かを深く作り続けるということは、生活の設計図を書き直すことだ。村上春樹はそれを、30歳の春に球場のスタンドで静かに決めた。
参照元
本エピソードは公開情報をもとにAIが編集・要約したものです。内容の正確性を保証するものではありません。 存命の人物に関する記載のため、現時点の状況と異なる場合があります。 掲載内容に誤りがある場合は 免責事項ページ よりご連絡ください。